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2011年12月27日 (火)

天草御所の浦島の摂津源氏多田行綱夫妻の墓 若宮様

平家物語で鹿ケ谷の陰謀を清盛に密告したとされている摂津源氏の嫡流の多田行綱は源平合戦の一の谷・生田の森の戦いで鵯越の坂落としをして功労者とも言われていますが、頼朝に領地を没収されて追放され遠く天草まで逃げてきて、平家の落人と間違われ御所の浦島で人知れず、訪れる人もほとんどなく静かに眠っています。

私の故郷の町にある天草一の標高の山、倉岳(天草上島)から御所の浦方面の写真

http://www.ajkj.jp/ajkj/kumamoto/amakusa/kanko/kuratake/kuratake.html

写真の左上が御所の浦島です。島の手前が平瀬島

P5200005_2

といって私の今の実家の目の前にあります。

オチヨド鼻

P5220008_3

(地図にも載っています。)があります。平家の落人から名づけられた地名のようです。オチヨド鼻は実家から小さい湾があって500メートルぐらいですのでここにも行ってきました。家があるのは空家でその先には崖になってて行けませんでした。特に説明はありませんでした。今回は法事で帰ったのですが、羽田に前泊し6時20分の始発で福岡、天草と飛行機を乗り継いで10時に天草空港に着き家には10時半ごろ着きました。 御所の浦には倉岳町の棚底港から船の定期船が一日10往復しています。三角や本渡の途中で寄る船もあります。乗客がかなりいることになります。

棚底から嵐口までは20分ぐらいでした。嵐口では桟橋の近くに平家の落人多田行綱夫妻の墓の若宮様があると聞いていたので場所を聞いたら丘というか登ってみると30mぐらいのビルのような感じです。手すりはついていますが階段は急で大人でないといけないようなところです。地元のアイランドツーリズム推進協議会の方によると嵐口の西ノ崎の小高い丘は「ふるわんどん」と言われているようです。
下のほうにある

若宮様の案内の看板

2011_4

若宮様

2011_5

御所の浦ネット

http://www.goshoura.net/index.html

アクセスの天草宝島観光協会御所浦支部(御所浦アイランドツーリズム推進協議会)

に問い合わせますと多田行綱の墓に詳しい方がいます。

多田行綱は平清盛、源義経、頼朝との事件にも名前が出る武将です。

多田行綱年表

1177年 鹿ケ谷の陰謀を平清盛に密告(高校の日本史の教科書にも載っているようですね。)

1184年 一ノ谷の戦い 源義経

1185年 壇ノ浦の戦い

1185年 摂津多田荘、頼朝により没収追放

行綱は壇ノ浦の戦いの後も摂津にあってその後追われたようです。御所の浦では平家の落人となっていますが実際は元源氏だったようです。元源氏というより源氏の本家の人です。地元一ノ谷の戦いでは義経より活躍したという説もあります。

玉葉

http://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/rekihaku-meet/seminar/etoki/truth.html

玉葉は藤原兼実の日記で客観的で当時の一級の資料と言われています。

源氏の系譜(下のほう)

http://www.tadajinjya.or.jp/nenpu.html

一の谷の戦いで活躍しましたが、頼朝に没収、追放されたことから

吾妻鏡からは名前が消えています。歴史的に抹殺された人かもしれません。

単なる卑怯者の密告者でない武将のような気がします。

800年前に一族郎党がオチヨド鼻付近をを歩いていたかもしれません。平安時代が急に身近に感じました。熊本は平安時代、平清盛が肥後の守で統治していましたので、土地勘があり、かくまってくれる人もいたのか、平家の落人が多いです。球磨川上流の五家荘等があります。

また私の実家は今でこそ天草空港ができて時間が短縮されましたが

空港がなかったときは熊本空港まで飛行機で行っても、朝出て夜着くほどで12時間かかりました。熊本市から天草に行くのが遠かったです。宇土半島から天草五橋を渡って

行っていました。さらに橋は私が中学の頃で来たのですがそれ以前は船しかありませんでした。小学生のころ三角に船でいったことがあります。その時御所の浦の嵐口に

寄ったことがあります。それ以来です。上陸したのは初めてでした。

九州新幹線ができて大阪から熊本まで3時間で行けるようになって、神戸などから

修学旅行で御所の浦に来ているようです。

私はこの調査資料を見て興味を持ちました。 ここにも詳しいです。

http://www.eonet.ne.jp/~koutaro/local/tono2.htm

御所の浦島は、景行天皇が九州巡幸のおり、訪れたことから

付いた名前のようです。下記の八代の項

http://www.geocities.jp/mb1527/N3-23-2keikoukyuushuu.html

私が育ったのは、この項の下にある宮田という村でした。

米を献上したことからついた名前のようです。

余談ですが羽田始発で行ったのは小中学校のころ毎週のように行っていたカサゴ(ガラカブ)を釣りたかったからです。午後が使えます。もっとも羽田に1泊しましたが。潮が満ちてくる時がいいので時間も調べて夕方1時間ほどで8匹釣ることができました。ガラカブは吸い物にするとだしが出るので、それを食べたかったこともあります。鯛は良く帰ると食べさせてもらうので慣れているのですが、カサゴは東京では新鮮なものは食べられません。自分で釣って食べられたので満足でした。

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コメント

多田行綱に関する記事のオーナーの方へ
はじめまして。 自分も天草の出身で姓が多田ですので貴Webを参照し、自分のご先祖に関してかなり興味がわいてきました。
長い年月がたっている為、物事の正しい流れは見えてこないのかもしれませんが可能性として自分もなんらかの形で多田氏に関係があるのかもしれないという漠然としたロマンのようなものを感じました。
現在は天草を離れておりますが何かの縁があれば戻ってみようというかすかな気持ちがあります。
また新しい情報がありましたらお知らせ(掲載)頂ければありがたく思います。
多田

投稿: | 2012年5月13日 (日) 21時56分

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